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写本師の穴蔵

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「逆行の夏 ジョン・ヴァーリイ傑作選」ジョン・ヴァーリイ(浅倉久志他)




SF短編集。
人間の身体感覚の変化と、それに呼応する精神の変容をテーマとしたものが多い。心の在り方は肉体に基づくと言ったところだろうか。


「逆行の夏」(大野万紀)
水星で暮らす主人公のもとに月から双子の姉がやってくる。
身体に内蔵される機械装置<服>の設定も面白いが、一番興味深いのは社会の在り方。
気軽に性転換でき、子供はひとりで作れるよう科学技術が発展した結果、ひとりの人間にひとりだけの子供がいることが社会常識で、現代の「両親と子供」という家族の在り方が非道徳的と批判されている。


「さようなら、ロビンソン・クルーソー」(浅倉久志)
老人が身も心も子供に戻り、冥王星に作られた南の島を模したリゾートで長い休暇をとる話。
南の島で海も陸も自由に冒険し、同年代の少女や大人の女性との関係を楽しむ。幼年期から思春期を新鮮な気持ちで再体験できるのは最高の休暇だ。


「バービーはなぜ殺される」(宮脇孝雄)
殺人事件の被害者は、個を否定する教義の宗教団体に所属していた。皆同じ顔、同じ身体、同じ声。名前を捨てて共同生活を送る中で起こった殺人事件を解決するために、女警部は宗教団体と接触する。
現実的な人類補完計画、といった感じ。一人称が「わたしたち」と複数形で、個々の体験を出来る限り共有しようとするため捜査は難航する。その個体がやったり見たりしていないことを「わたしたちがやった」「わたしたちが見た」と自然に主張するのだからやってられない。
殺人の動機がそこそこ皮肉が効いてて面白い。


「残像」(内田昌之)
視聴覚障害者で形成されたコミュニティの話。
視覚がなくなれば行動を、聴覚がなくなればコミュニケーションが阻害される。両方ともなくせば不自由極まりなく、まともに生きることも難しいと健常者は考える。だが主人公が訪れたコミュニティでは、視聴覚障害者が自立して問題なく暮らしていた。
視覚と聴覚を持たない人々がコミュニケーションツールとして扱うのは触覚(それと嗅覚も)。触れあうことで意思疎通を図る。そこでは性行為すらコミュニケーションとして扱われる。

私たちも家族や恋人との触れあいで、ある程度の感情は伝えられる。時には言葉よりも雄弁に。視覚と聴覚を知らない人々が日常的にコミュニケーションツールとしてそれを使えば、そこに含まれる情報は膨大なものになるのだろう。それこそ「言葉にできない」ほど。
言葉は万能に近いものだと無意識に感じていたが、実は「言葉にする」ことによって喪失される情報が多いことをこの作品は浮かび上がらせる。

触れあいによる非言語コミュニケーションでは嘘をつけず、自分の心理が丸裸にされる。やがてそれは人々がより深く理解することにつながり、お互い同化していく。
視聴覚という「余計」な感覚を持つ者には決してたどり着けない領域で、健常者は逆に疎外感を感じていく。「障害」の定義が逆転するのだ。
彼らが行き着いたラストは神秘的で美しい。


「ブルー・シャンペン」(浅倉久志)
映像ではなく体験――感情そのものまでも――を記録し再生・体験できる「体験テープ」が製作販売されている未来の話。
自分の体験を売る、というのはある意味身体を売るよりきついことかもしれない。自分の心情が丸裸にされ、大衆に娯楽として消費されるというのは正直嫌だ。どうしても売りたくない、厳重にしまっておきたい体験だって当然あるだろう。
メガンがなぜそんな体験テープのスターとして生きているのか、そして彼女の選択の重さが物悲しくて、とても鮮烈で好き。


「PRESS ENTER ■」(中原尚哉)
留守番電話に入っていた録音メッセージに従い隣の家へ行くと、隣人が死んでいた。
第一発見者であり、なぜか遺書によって不動産相続人にもされた主人公は、コンピュータ捜査を担当するリサと親しくなり、不可解な事件と関わっていく。
いかにもSFっぽいハッキング描写だと思っていたので、オチにはまあ納得。ちょっと星新一の「声の網」を思い出した。



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